足取り軽くアパートに戻った春花だったが、玄関を開けた瞬間に体が強張った。春花は電気を消した状態で外出したはずだが、部屋の明かりは煌々と灯り玄関には脱ぎ散らかした男物の靴がある。まさかと思っているうちに、奥から不機嫌そうな顔をした高志がのっそりと現れ、春花は一歩後退りをする。「……どういうこと?」「やっぱり浮気か」「何言ってるの?」「どこへ行っていた?」「コンサートだけど」「そんなお洒落していくかよ」高志は春花の服装を指摘する。今日の春花はフォーマルに近いワンピースにパンプス、そしてイヤリングを付け、髪は編み込みのアップスタイルでパールのついたバレッタを付けている。ピアノのコンサートだからといってドレスコードしなくてはいけない決まりはなく、カジュアルスタイルでもちろん入場できるのだが、静に会えるという気持ちで普段より服装に気を遣ったことは否めない。春花はバツが悪い気持ちになるが、そもそも高志とはもう恋人ではないのだから罪悪感を感じる必要はないのだ。春花は強い意思を胸に、高志を睨んだ。だがそれ以上に冷たい視線が春花を射ぬく。「……私たち別れたんだから、合鍵返して」「ああ、俺達別れたんだから、お前が出ていけよ」「え……待って。私の家だけど? あなたは寮があるじゃない」「はあー。二十八までしか入れないんだよね。だから結婚して寮を出ようと思ってたけど、お前にあんなこと言われちゃなぁ」「結婚?」「そう。春花と結婚しようと思って寮は解約した。だからここに住むことにした」「……何言ってるの? 意味がわからない」「春花は俺と結婚する気ないんだろ?」「ないよ」「だったらこの家は俺が住むから、お前が出ていけって話」「そんな……。だって、出てくにしても荷物とか」そういう問題ではないのだが、高志の強引で強気な態度に圧されて春花はどんどん弱気になっていく。高志は面倒くさそうに髪を掻き上げると、親指で部屋の奥を指差した。「確かにお前の荷物は邪魔だよな。じゃあ明日俺が帰るまでに荷物なくしておけよ。荷物があったら捨てる。お前がいたら追い出す。わかったか、くそ女」「え、ちょっと……」高志の勢いに圧され、春花はそのまま玄関を出た。と同時にガチャンとドアが閉められる。そしてあてつけかのように乱暴にチェーンが掛けられる音が聞こえた。閉じられた玄関の
翌日、幸いにして夕方のレッスンまで仕事はない。春花は荷物をまとめるためにアパートへ戻った。そろりと鍵を開けると、そこはもぬけの殻だ。あんなモラハラ高志だが、彼は仕事にはちゃんと行くことを春花は知っていた。仕事中の高志の態度は全く知らないが、きちんと出勤するということは最低限のルールは守っているのだろう。「……はぁ。本当に意味がわからない」なぜ自分が出ていかなければならないのか。考えれば考えるほど理不尽でたまらないが、高志とこれ以上争う気は微塵も起きなかった。しかも高志は合鍵を持っているのだ。我が物顔で彼が入り浸る家には、もういたくない。だが、新しい家を探すにも日数が必要だし、なによりまとまったお金がないと動けない。「はぁー」ため息しか出てこない。 考えると高志に貢いでばかりだった。大企業勤めで寮暮らしをしている高志は、お金がないわけないのにいつも金欠だと言っていた。入った給料はスロットで使い果たし、春花にプレゼントひとつしたことはない。幸い銀行のカードは財布の中、パスワードは教えていない。まずは自分の財産に安堵し、荷物の整理を始めた。元々そんなに私物は多くなく、荷物くらい簡単にまとめられると思っていた。だが、いざ整理し始めるとどうしたらいいかわからなくなる。荷物が少ないといっても、さすがにカバンひとつでどうにかなるものでもない。「どうしよう」一日ですべてをこなすのは無理だ。夕方からはレッスンが入っている。それを休むわけにはいかない。春花はその場にペタンと座り込み、荷物を前にして途方にくれた。
ポロ、ポロ……と涙が溢れ落ちた。泣きたいわけじゃない。ただ悔しくてやりきれない想いが春花の心をぐちゃぐちゃにする。電子ピアノをスタンドから降ろしてカバーを付けソフトケースに入れる。両親が離婚して引っ越しをする際、ピアノを売ることになったあのときの気持ちとよく似ている。今回ピアノは売らないが、突然訪れた出来事に頭がついていかない。喪失感が春花を支配し、理解することを拒絶しているようだ。――ブブブ、ブブブ、突然携帯電話が震え出し、春花はビクッと肩を揺らした。恐る恐る手に取ると画面には【桐谷静】と表示されており、春花は涙を拭ってからそっと通話ボタンをタップする。「……もしもし」『山名? 昨日イヤリング落としてないか? 楽屋の忘れ物で届けられてたみたいなんだけど』「え? あ、うん」『山名?』「うん」『泣いてる?』「……ううん」『嘘だ』「……桐谷くん」穏やかで優しい静の声は春花の耳にたおやかに響き、やがて体全体へ浸透していく。その安心できる声に、一度止まった涙が再び溢れ出した。『どうした?』「うっうっ、桐谷くんどうしたらいいか……」『……山名、今どこにいる?』静の声色が緊迫したものに変わる。静にこんな話をしていいものかと一瞬躊躇ったが、それよりも今は誰かに話を聞いて貰いたいことの方が気持ちが大きい。春花は泣きながら現状を伝え、事実を口にするたび悔しさが込み上げてきて時々嗚咽が漏れた。『山名、ゆっくりでいい、落ち着いて』耳に響くその声はしっとりと優しく、すがりたい衝動に駆られた。
どれくらい経った頃だろうか。ぼんやりとヘタりこんでいる春花の元に、静が息を切らしながらやってきたのは。「山名」名前を呼ばれて見上げれば、静が険しい顔で春花を覗き込む。「事情はだいたい理解した。まずは荷物を持って俺のところに避難しよう。ここは今月で契約解除すればいい」春花の腕を取って立ち上がらせようとするが、春花はフルフルと首を横に振る。「でもそうしたら高志が住めなくなる」「そんなの知ったことじゃないだろ? 今月末で退去の旨を知らせておくだけで十分だ。山名が責任を感じることはない。むしろ乗っ取られてるんだから訴えても良いくらいだ」「だけどこれは痴情のもつれというか」「山名」「夫婦喧嘩は犬をも食わないみたいな」「山名」「私がちゃんとしてなかったから」静がいくら呼び掛けても、自暴自棄になっている春花は答えようとしない。静はすうっと息を吸い込むと凛とした声で名前を呼んだ。「春花!」その声に、まるで時が止まったかのように静寂が訪れる。春花は目をぱちくりさせながら恐る恐る静に視線を合わせると、静はふと表情を緩めてから柔らかく春花を自分の胸に引き寄せた。「春花、落ち着け」「う、ううっ……」改めて名前を呼ばれ、春花の感情は大きく揺さぶられる。「昨日連絡先を聞いておいてよかったよ。春花は俺が守るから」静が抱きしめる腕の力が強まる。 暖かく包まれているうちに、春花の中にあった禍々しい感情がすっと落ち着いていくのがわかった。
静のマンションには防音設備の整ったピアノ専用の部屋がある。その他にも二部屋あり、荷物を置かせて貰うだけでもありがたいというのに、静は春花に一部屋使って良いと開け放した。初め遠慮した春花だったが、マンションは職場からさほど遠くない位置にあり通勤にも困らない。下手にリビングに居座るよりも自分の部屋で静かに過ごすことの方が迷惑にならないのではと考えて、春花は次の家が決まるまでありがたくここに住まわせてもらうことにした。「俺は夕方から外出するけど」「あ、私も夕方から仕事なの」「ん、じゃあこれ渡しておくよ」差し出された手を両手で受ける。と、固くてひんやりとした感触に目を疑った。「こ、これ……」「うん。鍵」「だ、ダメだよ」「どうして? 鍵がないと困るだろ」「でも……」「自由に使っていい。俺は仕事の時間がバラバラだから」そのまま握らされ、合鍵に良い思い出のない春花は戸惑いながらも大事に受け取る。無機質なモノなのに、やけに心が騒がしいのはなぜなのか。ぽっと灯る柔らかな温もりはゆっくりと浸透していくように、春花の心を包み込んでいった。夕方、レッスンのために出勤した春花を見た葉月は眉根を寄せ、手招きしつつ春花を呼びつけた。「ちょっと山名さん、何だか顔色悪いけど大丈夫?」指摘され、春花は頬を両手で押さえる。昨晩高志にアパートを追い出されビジネスホテルに泊まったわけなのだが、全くといっていいほど眠ることができなかった。今朝は朝食もそこそこにアパートへ戻り荷物の整理をしていたのだ。昼食もとっていないことに今更ながら気づく。「あ、ちょっとプライベートでいろいろあって。すみません、仕事に迷惑かけて」「別に迷惑はかけられてないけど。これからレッスンよね、大丈夫?」「それは大丈夫です。それより店長、今度レッスン風景を見学したい方がいまして」「体験レッスン? いつも通りやってくれて構わないわよ。」「あ、じゃなくて、見学したいのは桐谷静さんなんですけど」春花の言葉に、葉月は作業中の手を止める。改めて春花と目を合わせると、不思議そうに首を傾げた。「……え? 桐谷静ってピアニストのじゃないわよね?」「はい、そのピアニストの」「……え、山名さんとどういう関係なの?」「実は高校のときの同級生なんです」「やだっ! 何でそれを早く言わないのー? もしかして一曲
仕事が終わった春花は迷わず静のマンションへ帰った。渡された合鍵でエントランスの自動ドアを解除する。スッと音もなく開くドアは高級感に溢れており、エントランスの天井は高くクッション性の良さそうなソファーが優雅に出迎えてくれた。自分のアパートとは違う感覚は、春花の心を幾ばくか緊張させる。玄関のドアさえも重厚な造りで力を込めないと開かなかった。「た、ただいまぁ」遠慮がちに呼び掛けてみるも、部屋はしんと静まり返っていて人の気配はない。「お、お邪魔します」そろりそろりと入っていくと、ピアノルームの扉が開いていた。そっと中を覗くと自動で照明が点き、春花はわあっと声を上げた。部屋の真ん中に立派なグランドピアノが置いてある。照明が反射してキラキラと光っている様は、音楽室を彷彿とさせた。そっと蓋を開け鍵盤を弾くと、ポンと体の芯まで響いてくるような重厚な音が鳴った。「……トロイメライ」高校のとき静と連弾した曲を思い出し、春花は微笑む。まさかこんな形で静と再会するとは思っても見なかったが、昔と変わらない優しさは春花の心に安心感を与えている。本当は静と音大に行きたかった。静と一緒にピアノを弾きたかった。もしもあの時一緒に音大に進学できていたら、自分はどんな人生を歩んでいたのだろう。ピアノ講師としてかろうじてピアノは続けているが、静との実力は雲泥の差だ。
春花は何だか惨めな気分になり、泣きたくなった。と、突然携帯が鳴り出す。「もしもし?」『春花、何で出ていくんだ?』「高志……。あなたが出ていけって言ったじゃない」『そんなの嘘に決まってるだろ。春花を試したんだ。ああやって言えば春花は優しいから振り向いてくれると思った』何を言われても、高志の言葉は嘘にしか聞こえない。もう彼に振り回されるのはうんざりだ。「もうアパートの契約解除するから。あなたも出ていってね。私知らないから」『は? ちょっと待てお前何言ってんの? くそが、死ねよ』「もう私は死んだと思って。さよなら」春花は今まで出したことのない冷ややかな口調で告げ、乱暴に電話を切った。「はぁー」ほんの少し緊張が解け、その場にペタンとへたれこむ。手のひらから滑り落ちた携帯電話は何度も鳴り続け、高志からの着信履歴で埋まっていった。一体いつまでそうしていたかわからない。「ニャア」「……猫?」春花の左指をクンクンと鼻を擦り付けながら時折ペロペロと舐める猫。「……桐谷くん猫飼ってたんだ。君、慰めてくれるの? 優しいね」「ニャア」猫は人懐っこく春花に擦り寄り、撫でてほしいとばかりに頭をグリグリと寄せる。「ふふっ、可愛いね」春花は要求通り頭を撫でてやる。猫は気持ち良さそうに目を細めた。静が帰宅するとピアノルームから明かりが漏れており、不思議に思ってそっと中を覗く。中では春花が横たわっており、驚いて思わず声を上げそうになった。「春……」「ニャア」春花に包まれるようにして猫が顔を上げ、その心地良さそうな表情に二人で寝ていただけなのかとほっと胸を撫で下ろす。「まったく、驚かすなよ。ほら春花、こんなところで寝ると風邪ひく――」揺り動かそうとして、ハタと手が止まった。春花の目元は涙に濡れ、苦しそうな表情で眠っていたからだ。「ニャア」「お前、春花のこと慰めてたのか? 偉いな」静が撫でようとすると猫はその手をすっと避け、再び春花の胸元で丸くなる。「……おい、飼い主は俺だぞ」静は苦笑いしながら立ち上がると、別室から毛布を持ってきて二人に掛けてやった。コンコンと眠り続ける春花。固く握られた手。静はその手にそっと触れる。「……遅くなってごめん」小さく呟いた言葉は、猫だけが片耳をピクッと揺らして聞いていただけだった。
とても心地良い気分でスッキリと目覚めた春花は、あまりの爽やかさにうーんと大きく伸びをした。久しぶりにぐっすり寝たような、そんな気分だ。自分に掛けられている毛布を見て、ようやくここが静のマンションだったことを思い出した。「……ショパン?」耳を撫でるピアノの音に春花は顔を上げる。心地良い揺らぎはこのピアノの音だったのだろう。静は春花に気付くと、ニッコリ微笑んで演奏の手を止めた。「桐谷くんごめん、なんか寝ちゃって。ショパンだったよね?」「うん。春花がよく眠れるように」「すごくよく眠れたよ」「それならよかった。春花がつらそうに寝てたから」「ねえ、もしかして帰ってきてからずっと弾いていたの?」「春花の寝顔が可愛かったから、ずっと見ていたくて」「ええっ!」流された視線が予想外に甘くて、春花は思わず頬を赤らめながら目をそらす。それに、いつの間にか「山名」から「春花」へ呼び方が変化していることに動揺が走った。変に意識してしまったことに焦りを覚えるが、それに対して静は何も気にしていないようだ。「あ、あのさ、名前で呼ばれるとなんか恥ずかしいっていうか、ドキドキしちゃうっていうか……」ゴニョゴニョと静に訴えてみる。 静は立ち上がり春花の元に行くと、彼女を覗き込むようにして視線を合わせた。「な、なに?」「春花をドキドキさせてるんだ」微妙な距離がもどかしい。 お互いの呼吸音が聞こえ、毛布の擦れる音さえも大きく聞こえる。ドキドキと高鳴る鼓動が聞こえてしまうのではないかと思うほどの距離感は、まるでキスをするような感覚に似ている。近づく距離に反射的に目を閉じた。 と、その時。「ニャア」鳴き声にはっと我に返り、春花はほんの少し仰け反る。猫は春花の腕にグリグリと頭を擦り付けていた。「あ……」「こら、邪魔するなよ」静がため息混じりに猫を抱き上げると、猫は静の腕をするりと抜け、目を真ん丸にしながら床をあざとくゴロンゴロンと転がった。「……お前」「あ、猫。猫飼ってたんだね」「ああ、猫アレルギーじゃないよね?」「大丈夫。すごく人懐っこいね。名前、何て言うの」「……」「……?」静は開きかけた口を躊躇いがちに閉ざし、春花は不思議に思い首を傾げる。ふいと春花から視線をそらすと、ぼそりと呟いた。「……トロイメライ」「ニャア」静の言葉に反応
葉月の葛藤が、静への質問に代わる。「……どうして居場所を知りたいの? あなたたち、別れたんじゃないの?」春花からは静と別れたと聞いている。だからきちんと二人で納得しあった上での別れだとばかり思っていたのだが。静の悲痛な表情に、それは違ったのだろうかと葉月は察した。「別れてなんかいないです。俺が海外に行ったのも春花が背中を押してくれて……」「そっか、あなたたちちゃんと話し合いをしなかったのね。山名さんもバカだわ。なんでも自分で背負いこむんだから。本当に困った子よね」葉月はひときわ大きなため息をつく。辞めると退職届を渡してきた春花のことを、もう少し気にかけてあげたらよかっただろうか。そうだとしても、結果は変わらなかっただろうか。葉月は静をまっすぐ見据えて、事実を述べた。「店の前で事件があったでしょ。その事件のことを嗅ぎまわっているマスコミが店に来たの。そのときは追い返したけど、山名さんは自分のせいで桐谷静に迷惑かけたくない、汚点のない桐谷静でいてほしいって、責任を感じたみたいよ」「春花が汚点なわけないじゃないですか!」「そんなこと私だって知ってるわよ。だけど山名さんの気持ちもわかってあげて。桐谷静を誰よりも応援していたのは山名さんよ。だから自分の気持ちは押し込めて、あなたの背中を押したんでしょうね。それに山名さんの意思は固いのよ。悪いけど、私も山名さんと付き合いが長いのよ。私は山名さんの味方なの」フンと鼻であしらい葉月は仕事に戻ろうとして、もう一度静に向き合う。
何も手掛かりが掴めない静は、春花の勤め先の楽器店を訪れていた。「山名さんね、辞めたのよ」「辞めた?」素っ気なく答えられ、静は思わず語気を強める。自分の元に通う生徒たちを見捨てることができないと言っていた春花を知っているだけに、葉月の言葉はすんなりと信じられなかった。「春花のところに通っていた生徒さんたちはどうなったんですか?」「辞めてもしばらくはレッスンだけの契約で働いてくれてたのよ。でも時間をかけて生徒さんたちにも説明して別の先生に代わってもらって、今はもう来ていないわ」「それで、春花は今どこにいるんですか? 久世さんなら知っているんでしょう?」静は前のめりになる。春花の安否を確認するため葉月に電話をかけた時、「春花は元気だ」と告げられた。何かを隠しているようなかばっているような、そんな態度に違和感を覚えていたのだ。葉月は困ったようにため息をついた。もし静が春花を訪ねて店に来た場合、自分の居場所は知らせないでほしいと春花から頼まれていた。その場では了承したものの、葉月自身それが正しいのか分かり兼ねている。春花と静、二人でいるときの雰囲気は羨ましいほどにとても幸せそうに見えていた。だからこの先もずっと二人の関係が上手くいってほしいと願っていたのだ。
春花の消息を尋ねるには、勤務先の楽器店が手っ取り早い。静はさっそく電話をかけてみる。『お電話かわりました、店長の久世です』「桐谷静です。お世話になっております」『どうかされました?』「あの、春花と連絡が取れないのですが、春花はいますか?」『今日はお休みなの。でも元気だから心配しなくても大丈夫よ』「……あの、春花に連絡がほしいって伝えてもらえますか?」『わかった。伝えておくわね』「はい、すみません」ひとまず春花が無事でいることだけは確認でき、静は胸を撫で下ろす。ただ、音信不通になった理由は未だにわからない。そして葉月との会話にも違和感を覚えたが、彼女の変わらぬ明るい声にそれ以上の追求はできなかった。 どうにか最低限の公演を終え責任を果たした静は、その後に企画されているものはすべてキャンセルして日本に戻った。一刻も早く春花の消息を知りたかったのだ。久しぶりのマンションは、自宅だというのにしんと静まり返りひんやりとしている。まったく人の気配がない。「春花?」声をかけながら一部屋ずつまわるものの、そこに春花の姿はなかった。春花だけではない。猫のトロイメライもいないし、何より春花の荷物がひとつもなかった。まるで最初からその存在はなかったかのように……。「……どういうことだよ?」なぜあの時すぐに帰国しなかったのか。 すべてを投げ捨ててでも帰国すればよかった。「春花、どこに行ったんだよ!」静の叫びは誰に聞かれることもなく、そのまま冷たい空気の中に溶け込んで消えていった。
ピアノを弾くのは楽しい。世界中の人を魅了することは高揚感がありとても気持ちがいい。もっともっと上に行けるのではないかと思わせてくれる。壇上でもらう拍手は何物にも代えがたい宝物だ。だけど足りないものもある。 それは春花の存在だ。一度は失いかけた演奏の楽しさを、気づかせてくれたのは春花だった。いつだって応援してくれるのは春花だけだった。いくら有名になってもいくら賞を取っても、心のどこかで満たされないものがある。それは隣に春花がいないことだ。静はそれにようやく気づいたのだ。静は春花に電話をかけたが留守電につながってしまった。それもそのはず、時差があるのだ。春花とは時間を合わせないと、仕事中だったり深夜だったりしてしまう。静は自分の浅はかな行動を恥じ、また明日時間を見計らってかけ直そうと気分を落ち着けた。だが翌日になっても、大丈夫だろうという時間にかけても、留守電にメッセージを入れても、一向に春花から返事が来ることがなかった。そしてさらに数日後には電話も繋がらない、いわゆる音信不通になってしまったのだ。嫌な予感がした。 いや、嫌な予感しかしない。まさか倒れたとか? また襲われたとか?そんな不安が過る。今すぐにでも日本に戻って春花の無事を確かめたい静だったが、次の公演はもう決まっておりそれを投げ出すとなると多くの人、企業に莫大な迷惑がかかる。天秤にかけるようなことはしたくないが、社会人としての責任感も簡単には捨てられなかった。
◇祝賀会は一部マスコミの入場も許可されており、主役の二人が壇上に上がることになっていた。メイサは自然と静の腕に手をかける。ぴったりと寄り添い、離れるつもりはないようだ。静は振り払いたいのを我慢しながら、渋々そのまま壇上までエスコートしていった。わあっと歓声が上がり、「やっぱりお似合いよね」などという声が上がる。まわりに囃し立てられ気分を良くしたメイサは、ますます静に体をくっつける。「ねえ、私たちもこのまま恋人になりましょう。二人ならきっと素敵な音楽が奏でられるわ」「俺には恋人がいるって言ってるだろ」「何言ってるのよ。これから海外公演が増えるのよ。日本に帰らないのに待っててくれるわけないじゃない。それにあの子、身を引くって私に言ったのよ」メイサの発言に静の思考が一旦止まる。春花とメイサに接点などあっただろうか。「……どういうことだ? 春花に会ったのか?」「ええ。静の夢を邪魔しないでねって忠告してあげたの。おかげで海外公演も大成功よ。感謝しなくちゃね」「は? ふざけるな。俺はもうメイサと弾く気はない」「何言ってるの? これから私たちはもっと有名になっていくのよ。とても栄誉なことだわ」「栄誉なんていらない。俺はそんなもの求めていない」「じゃあどうして海外に来たの? 有名になるためでしょ? 私たちなら世界中に名を轟かせることができる。それの何が不満なの?」「不満に決まってる!」静は吐き捨てると、そのままメイサの元を去った。祝賀会もどうでもよくなった。
抱いていた恋心が数年越しの再会と共に実り、静と恋人になれたことが嬉しかった。 短い間だったけど、一緒に暮らせたことも幸せでたまらなかった。 ずっと一緒にいられたら……なんて考えるだけで未来が明るいようで心が軽くなった。だけど、静の夢を一番に応援しているのも事実。静の背中を押し海外に送り出したのは、彼に広い世界で輝いてほしかったからにほかならない。そんな春花の予想通り、静は海外で着実に実績を上げて活躍の場を広げていっている。本当に凄くて誇らしくて、涙が出そうなほど感動する。でもその一方で、自分の情けなさに胸が潰れそうになる。一生懸命やってきたピアノの先生も、左手首の捻挫から思うようなレッスンができなくなった。完治しているのに、いつまでもあの事件が頭の片隅で燻るのだ。そしてそのことで静にも店にも迷惑がかかっている。この状況に、春花の心は耐えられそうになかった。自分の存在がリセットできたらどんなにいいだろう。何もかも忘れて新しい世界に生きられたらどんなにいいだろう。そうやって考えるようになって、自分は心が病んでいるのだと気づき始めた。「それでこの先どうするの?」「ちょっとゆっくり休んで考えていこうかなって思っています」「大丈夫なの?」「大丈夫です、ちゃんと自分の将来も考えています。それでひとつお願いがあって……」葉月は春花の意思を汲み取って、今回は退職届をそのまま受け取った。ただ、上司として春花の心の闇に気づいてあげられなかったことが悔やまれ、申し訳ない気持ちになった。
「私の夢はピアノの魅力を伝えること。でももうひとつ、静が世界に羽ばたいている姿を見たいんです。わがままなことを言っているとは承知しているんですが……」時折言葉を選ぶように話す春花を見て、葉月は困ったように眉を下げた。「そうね、新規の生徒さんを頑なに入れないから、まあそんなことだろうとは思っていたわ。時間をかけて身辺整理をしていたんでしょう?」「いえ、まあ、残っている生徒さんには申し訳ないのですが」「それは仕方がないわ。こんなことを言ってはなんだけど、あなたの幸せが一番大事よ。私はこの先も辞めるつもりないし、新人も育ってきてる。レッスンのことは気にしなくていいわよ。それで、桐谷さんについていくの?」「いえ、私は遠くから見守るだけで十分かなって。寂しいですけど」てっきり静と結婚、もしくは将来を見据えて春花も海外に行くのかと思っていた葉月だったので、春花の言葉にポカンとしてしまった。理解が追い付かず目をぱちくりさせる。眉を下げながら困ったように微笑む春花。葉月はハッとなって、その肩をガシッと掴んで揺さぶった。「ちょっと待って! どういうこと? 別れたの?」「いいえ、まだ。でも静には私はいないほうがいいって思っています。彼の重荷になりたくないので」「重荷って……。それはあなた、思い詰めすぎよ」「そんなことないです。ずっと考えていたので……」
家に帰り一人になると、今日の葉月と記者の言葉が思い起こされて胸が潰れそうになった。明らかに静のスキャンダルを狙っているような質問に、春花は身震いして自分自身を抱きしめる。今日は葉月のおかげで引き下がったようだが、きっとまた来るに違いない。もしかしたら他の記者も来るかもしれない。そうなると、輝かしい静の活躍に自分のせいで泥を塗ることになるかもしれないという不安が渦巻いた。元カレである高志とトラブルになってしまったことで、こんなことになっている。この先、静にまた迷惑をかけてしまったらどうしよう。誰よりも静を応援し、誰よりも静を愛しているからこそ、春花は一人悩み落ち込んだ。そっと左手首を撫でる。もう完治しているはずなのになぜだかシクシクと痛む。静のことだけではない、こんな不安定な状態のままピアノを弾き続ける事にも違和感を覚えていた。「ニャア」「トロちゃん、どうしたらいいと思う?」猫のトロイメライは春花にすりすりと頭をこすりつける。「トロちゃんだけは私の側にいてね」頭を撫でてやると、トロイメライは春花の足元で寄り添うように丸まった。そして春花は決意した。翌日、春花は白い封筒を差し出す。「店長、あの……」「どうしたの?」「辞めさせていただきたいと思って。今回はちゃんと私の意思です」「山名さん……」「ずっと考えていたんです。ケガをしてから前みたいに弾けなくて、どうしたらいいんだろうって」春花は一呼吸置く。葉月は急かすことなく春花の言葉をじっと待った。
「以前、店の前で人が刺される事件があったのはご存じですよね」「ええ、物騒ですよねぇ」「ピアニスト桐谷静の恋人のことは知っていますか?」「ああ、話題になっていますよね、三神メイサでしたっけ?」「三神メイサとは別に恋人がいることはご存じで?」「えっ! 二股ってことですか! やだー」「この店には桐谷静のサインがたくさんありますね。以前彼が来たらしいじゃないですか」「ええ、そうですね、以前来ていただいたんですよ」「どういうツテで?」「それは企業秘密ですよ」「桐谷静の恋人がこの店で働いているから?」「んもー、記者さんったら誘導尋問がお上手だこと。ここだけの話、実は私が大ファンなので知り合いに頼み込んでもらったんですよ。あ、これ他の店には秘密ですからね。絶対ですよ。あっ! もしかして桐谷静の二股の相手って私なのかしら? だとしたら光栄だわぁ」葉月の明るい声と記者の愛想笑いはその後しばらく続いたが、やがて埒が明かなくなったのか、記者の方が根負けて「今日はこのくらいで……」などと言って帰っていった。「あー、しつこい男だった」ため息とともに仕事に戻った葉月は、高くしていた声のトーンを落とす。「店長、すみません。私のせいで……」「社員を守るのも上の仕事よ。気にしないで。それより桐谷静が二股してるとか、その相手が私だとか、嘘言っちゃったわ。ごめんね」「いえ、いいんです。ありがとうございます」葉月の温かさが嬉しくて春花は目頭をじんわりさせた。本当に、良い職場で働いている。自分の蒔いた種なのにこんなにも守ってもらって贅沢ではないだろうか。ありがたいと同時に申し訳なさが込み上げてきて、春花は胸が押しつぶされそうになった。